毎朝、黒崎家の面々が出勤していく時間。
玄関の前に黒塗りの高級車が二台待機していた。まず最初に誠一が車に乗り込み出ていくのを、執事の旭とメイドたち数人がお見送りする。
次に智彦が出ていくのを同じように見送る。その後、聖が徒歩で出かけていくので、その姿が見えなくなるまで皆で見送った。
聖が学校へ徒歩で行くことを、智彦は気に食わないようで、いい顔をしなかった。
始めは注意したが、聖は歩いていくことに彼なりの考えがあるようで譲らない。 そのうち智彦も聖の頑固さに折れ、容認するようになった。「いってらっしゃいませ」
いつものように三人を送り出したさくらは、急いで制服に着替え、屋敷を出た。
さくらはメイドの仕事をしながら、学校へは普通に通っていた。
それは聖のはからいのおかげだった。住み込みでメイドの仕事を与えてもらっただけでもありがたいことなのに、聖はさくらが学校へ通うことができるように智彦に頼み込んだ。
智彦もメイドにそこまですることをよく思わなかったが、聖の熱心さに打たれ了承した。晴れてさくらは学校へ通えることになったのだった。
さくらは現在十六歳、高校一年生だ。
聖は同じ高校で、一学年上の先輩だった。彼は頭もよく、都内で有名な進学校へ通っていた。
さくらは聖と同じ高校へ行きたくて、勉強を必死で頑張った。
なんとか同じ高校に受かったさくらを自分のことのように喜んだ聖は、智彦にさくらを同じ高校に行かせてほしいと頼み込む。智彦にとって聖は目に入れても痛くないほど愛しい存在だった。
そんな聖からの頼みを無下には出来ず、さくらは無事、聖と同じ高校へ行くことを許された。 聖は先に家を出ているので、追いつくにはそうとう急がなければならない。 さくらは出来る限り急ぎつつ走った。遠くに聖の姿が見えると、さくらはスピードを緩めていった。
五、六メートル程の距離を保ち、聖の後についていく。遠くから聖のことを見守る、これがさくらの日課だった。
本当は一緒に並んで歩きたい。
それは途方もない夢であり、憧れだった。しかし、そんなこと現実には到底叶わない、一使用人が主の横に並ぶなんて……。
こうして見守ることができている、それだけで幸せなことなのだ。そのとき、さくらの脳裏に映像が浮かんだ。
遠くからだんだんスピードを上げて聖に近付いてくる車。
急ブレーキの音。 そして聖の驚いた表情。そこで映像は終わってしまった。
映像から割り出せることは、聖が制服姿ということと、場所が今聖がいるところだということだ。
さくらは聖に向かって走り出した。
「聖様!」
さくらの声に聖が振り向く。
聖の手を取り、さくらはその場から急いで離れようとする。その場にいる人たちにも声をかけながらさくらは走った。
「ここから離れて、なるべく遠くへ! 急いで!」
周りの人間たちは、きょとんとした顔でさくらを見つめている。
いきなりそんなこと言われても、すぐに行動できる人なんていないだろう。「聖様はここにいてください」
さくらは聖を安全な場所に残し、事故が起こるであろう現場へ戻り、周りの人々に声をかけ続けた。
「みなさん、お願いです! ここから離れて!」
それでも動かない人たちをさくらは懸命に押していく。
人々はさくらを怪訝そうに見つめる。「何? あの子」
「頭おかしいんじゃないの」さくらの耳にもその声は入ってくる、しかし今引くわけにはいかない。
今起こるかどうかなんてわからない、しかしすべての条件が揃っている以上、放ってはおけなかった。そこへ車のブレーキ音が鳴り響く。
気づいた時には、車はもうすぐそこまで迫っていた。
人々を避難させることに集中していたさくらは逃げ遅れてしまった。「さくら!」
聖がさくらを引き寄せた。
次の瞬間、さくらがいたところに車が突っ込む。派手な音と、人の叫ぶ声が轟く。
さくらの誘導によって人々の避難は終わっており、大惨事には至らず軽傷者が数名出た程度で済んだ。
もしもさくらが動いていなければ、もっと酷い事故になっていただろう。 聖も無事だったかわからない。「さくら、大丈夫?」
聖の腕の中で我に返ったさくらは、聖の顔が近くにあることに驚き慌てて離れる。
「す、すみません」
さくらの心臓は大きく音を立て、顔は火照りだす。
聖はさくらの顔を覗き込み、優しく微笑んだ。
「いいよ、それよりありがとう。
さくらが助けてくれなかったら今頃どうなっていたか……。 ところで、何で車のことわかったの?」聖の純粋な質問に、核心を突かれたさくらが狼狽える。
「えーと、あの、遠くの方から猛スピードで車がこちらへ来るのが見えたので、万が一突っ込んでくると危ないなあ……と思って」
我ながらこんな嘘で切り抜けようとしている自分は、かなり間抜けだと思う。
「そっか、さくらはすごく目がいいんだね、それにすごく機転がきく。
君の行動がなければもっと被害が出ていただろうし。僕はいつも君に助けられてばかりだな」聖の無邪気な笑顔に、さくらは見惚れた。
こんな単純な嘘を信じてくれる聖はすごく純粋で素直な心の持ち主だ。
こういうところも、聖の素敵なところだとさくらは常々思っている。現場には救急車や警察車両が到着し、野次馬も集まってきた。
警察に当時の様子など少し話を聞かれた後、二人はすぐに解放された。「さ、気を取り直して僕たちは学校へ行こう」
聖が歩き出すと、さくらは聖の少し後ろに付き従うようについていく。
すると聖がさくらの隣に並んで歩いた。驚いてさくらが聖を見ると、彼は優しい微笑みを向けてくる。
さくらの心は舞い上がる。
隣に聖がいる、並んで歩いている。夢みたいだ。
この幸福な時間を心に深く刻み、さくらは一歩一歩踏みしめながら学校への道のりを歩いていくのだった。
窓から外の景色を眺める。 白く小さな塊が、ちらちらと空から降りてくる。 今日は特に寒いと思っていたら、雪がちらつき始めていた。 さくらは懐かしそうに目を細めた。「私たちが出逢ったのも、こんな雪の日だった」 小さくつぶやくさくらを、聖は優しい眼差しでそっと見つめる。 肩を抱く手に、少しだけ力がこもるのを感じた。「そうだね、君と出逢ったから――“この子”もいる」 愛おしそうに見つめる先には、さくらの腕の中でスヤスヤと眠る赤ん坊。 聖が優しい手つきで赤ん坊を撫でる。「……優希(ゆき)」 さくらが囁くと、赤ん坊は笑った。「あ、笑った」 聖が嬉しそうにはしゃぐ姿を見て、さくらが可笑しそうに笑う。 そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。「おい、優希はいるか」 誠一が部屋に入ってくる。 彼は優希が生まれてからというもの、毎日のように訪ねてくるようになった。 優希が可愛くて仕方ないらしい。「優希、いつ見てもおまえは可愛いなあ、将来は美少女になるぞ」 優希の顔を眺めデレデレしている誠一の表情からは、昔の面影は微塵も感じられない。 いつも無表情で、怒っているような顔をしていたのに。「誠一さん、いつもありがとう」 「兄上、近づきすぎです」 二人のことなど目に入っていないかのように、誠一は優希に夢中だった。 聖と誠一が由紀の争奪戦を繰り広げていると、また扉が大きな音を立て開く。「おう、みんな揃っとるな」 今度は智彦が笑顔でこちらへ歩いてくる。 智彦も優希の顔を見ないと気が済まないらしく、毎日訪ねてきていた。「優希ちゃーん、おじいちゃんですよぉ。今日も一日元気でしたかぁ」 すっかり孫が可愛くてしょうがないおじいちゃんと化している。 優希を見る、その鼻の下は伸びきっていた。「お父様、いつも優希を可愛がってくださってありがとうございます」 さくらが智彦に微笑むと、智彦は嬉しそうに頬を染める。「いや、なんの。さくらと優希のためなら、私はなんでもするぞ」 智彦はさくらのことも可愛くて仕方がないらしい。 自分の妻と子に鼻の下を伸ばす父を見て、複雑な心境になる聖だった。 そして、また次の来訪者がやってきた。「優希様はまだ起きていらっしゃいますか?」 礼儀正しく一礼し、部屋へと入ってくる。 旭もまた優希の
午後のティータイムの時間。 さくらは聖の部屋で、紅茶を入れているところだった。 熱々の紅茶をポットからカップにゆっくりと注いでいく。 その様子を、聖はすぐ隣で嬉しそうに眺めていた。 ずっと見られていると、どうも落ち着かない。 さくらは聖を注意する。「聖様、そんなにいつも見られていては、仕事がやりにくいです」 そう言っても、聖は全然言うことを聞いてくれない。 常にさくらから目を離さず、じーっと見つめてくるのだ。「だって、さくら可愛いから。 それに、見張ってないと誰かに盗られるかもしれないだろ?」 ちょっと拗ねたように唇を尖らせる聖。 可愛いなと思いつつ、さくらは眉を寄せ、反論する。「誰が私を盗るっていうんですか? 私を好きって言ってくれるのは聖様だけですよ。 それに、私は誰のものにもなりません、聖様だけのものですから」 自信満々にそう言い切るさくらを、聖はあきれたように眺める。 さくらはわかっていないのだ、自分がどれほど魅力的か。 そして、聖のライバルがすぐ近くに二人もいるということも、ちっとも気づいていない。「さくらは鈍いからなあ」 「私のどこが鈍いのですか?」 少し頬を膨らませて怒るさくらに、聖は笑った。「そういうとこが」 聖は急にさくらを引き寄せ、自分の膝の上に座らせる。「ひ、聖様っ」 さくらが顔を赤らめ、聖の腕の中でもがく。「僕だけのさくら」 耳元で囁かれ、さくらがビクッと反応する。「さくら、耳感じるの?」 聖が面白そうに問いかけると、さくらの顔がみるみる真っ赤に染まっていく。「そ、そういうこと言わないでください!」 「なんで? これからそういうことが大切なんだよ」 聖は楽しそうに笑っている。 そのとき、急にさくらの脳裏に映像が浮かんだ。
ある日の青天の午後。 太陽の光が燦燦と照りつける中、爽やかな風が洗濯物を揺らしている。「さくら、ちょっといいか?」 呼び止められたさくらは、洗濯物を干す手を止め、振り向いた。 ゆっくりと近づいてきた誠一が、さくらの横にそっと並ぶ。 何事かとさくらは大きな瞳で誠一を見つめた。「いろいろありがとう。父上のこと、聖のこと、あと……俺のことも」 さくらは不思議そうな顔をする。 智彦と聖のことはわかるとして、誠一に何かした覚えはない。 さくらが目をしばたたかせていると、誠一は急に吹き出した。「ははっ、そうだよな、なんのことかわからないよな。 ……それでいい。おまえはそのままで、いい」 誠一が優しい眼差しでさくらを見つめる。 最近の誠一は、以前に比べ、すごく穏やかな雰囲気をまとうようになってきていた。 これは嬉しい変化だと、さくらは密かに喜んでいる。「家のことは気にするな。 おまえたちが結婚したところで、黒崎家にはこの俺がいる。 いい嫁でも見つけて、この家を支えていくつもりだ。おまえらは自由にラブラブしてろっ」 誠一が嫌味っぽく笑うと、さくらは顔を赤くする。「な、何を……」 でもそれは、誠一なりの優しさだとわかっていたので、さくらは素直にお礼を言った。「ありがとうございます、お兄様」 冗談で言ったつもりだったが、誠一は真顔で黙ってしまう。 怒らせてしまったのかと、さくらは焦った。「す、すみません、調子に乗りました。最近の誠一様はお優しくなられたので、冗談も通じるかと」 さくらが慌てふためくその横で、誠一の頬がほんのりと赤く染まっていたことは誰も知らない。 屋敷には、いつもの日常の風景が戻ってきていた。 厨房で忙しく料理するコック、朝食の準備に走り回るメイドたち。 その中に、さくらの姿もあった。
そう言われた聖は不思議そうに首を捻る。「僕のせいなの?」 「聖様がお優しいから……」 さくらは聖の服をぎゅっと握る。 そんなさくらを、聖は愛おしそうに見つめていた。「僕はね、ずっと前から君の能力に薄々気づいていた。 まあ、決定打になったのは、今回の父上の件があったからだけど。 さくらはずっと僕のピンチを救ってくれていたよね? 気づかれないように気をつけていたみたいだけど、あんなに何度も助けられていたら鈍い僕だってわかるよ。 それでも、はっきりしたことはわからなくて、なんとなくそうかなって思ってた。 ……嬉しかったよ、いつも一生懸命に僕を助けてくれる君が、愛しくて、可愛かった。 一緒にいればいるほど、僕はどんどん君に惹かれていく自分をを止められなくなった。 誰よりも優しくて、一生懸命で、純粋で可愛いさくら……。 それなのに、なかなか打ち明けてくれないから、寂しかったな」 聖はさくらの髪に触れると、潤んだ瞳を向ける。 さくらもそれに応えるように、たどたどしく聖を見つめ返した。「聖様を失うぐらいだったら、今のままでいいと思ったんです。 言ったら嫌われてしまう、離れていってしまうと思っていたから。主と使用人という関係でも、例えどんな関係でも、ただお傍にいたかったんです」 さくらの瞳も潤み、艶っぽい輝きを含んでいた。 そんな瞳に見つめられた聖は、短い吐息をつく。「そんな瞳で見つめられると、我慢ができない」 さくらが何か言う前に聖はさくらの口を塞いだ。 聖の腕がさくらをきつく抱きしめ、彼女の動きを封じる。 別に抵抗するつもりもないので、さくらはそのまま聖に身をまかせた。 聖のキスが激しく深みを増していき、さくらは苦しそうに息を吐く。「ひ、じり……さまっ」 さくらの様子に、聖は唇を少しだけ離す。「さくら、可愛い……。先に進んじゃ駄目?」 聖が可愛く聞いてくる。
そして、聖はみるみる元気を取り戻していき、無事に退院することができた。 聖は話をするため、さっそくさくらを部屋に呼び出した。「さくら、まだメイドやめてなかったんだね」 メイド服姿のさくらを見て、聖がつぶやく。 さくらは聖の婚約者になったのだから、もうメイドでいる必要はなかった。「はい、だって何かしてないと落ち着かなくて。 いいんです、私はこの仕事が好きだから」 誇らしい笑顔を向けるさくらに、聖は嬉しそうに微笑み返す。「さくらがしたいなら、すればいいよ。僕もさくらのメイドは似合ってると思う」 しばしの沈黙の後、聖は急に真剣な表情になった。「さくら。……僕にずっと隠してることあるよね?」 ドキッとした。 さくらは高鳴る胸を抑え、必死に動揺を隠す。 しかし、もう言わなければいけない、それはさくらにもわかっていた。 意を決して、口を開く。「聖様、ごめんなさい、私――」 「未来が見える能力」 「え……」 「……だろ?」 さくらは驚いて聖を見つめる。「さくらが僕に何かを隠して苦しんでいるのはずっとわかってたんだ。言ってくれないことが寂しかったよ、信頼されていないのかって」 「そんなことっ」 「わかってる。恐くて言えなかったんだろ? 僕に嫌われるんじゃないかって」 さくらは聖のことを真っ直ぐに見れず、視線を逸らしながら頷いた。 聖が能力のことをどう思っているのかが気になる。 戸惑うさくらの腕を掴み、聖がさくらを引き寄せる。 さくらは聖の腕の中にすっぽりと収まった。「馬鹿だな……。僕がさくらを嫌うと思う? 離れていくと思う? それは絶対にない。 ――反対に考えてみて、僕がもしその能力を持っていたとしたら、君は僕を嫌いになって離れていくの?」 聖の問いに、さくらはおもいきり頭を横に振る。「いいえ! 聖様のことを嫌うなんてありえません。
「ん……」 さくらが目を開ける。 すると、いつもそこにあった聖の顔が無い。変わりに上半身が目に飛び込んできた。 慌てたさくらが上を向くと、優しく見下ろす聖の視線とぶつかる。 さくらは驚き、口をぽかんと開いた。「ひ、聖……様」 さくらは聖を穴が開くほど見つめ、震える手で聖の頬に触れる。 聖はその上からさくらの手にそっと触れた。「さくら……」「聖様!」 さくらが勢いよく聖に抱きつく。「よかった。――聖様っ、よかったあ!」 泣き喚くさくらを、聖は宥めるように優しく抱きとめた。「さくら……君が無事でよかった」 さくらの泣き声が響き渡る中、旭が聖に声をかける。「お目覚めになったのですね、本当によかった」 心からほっとしたような表情を見せる旭に、聖も微笑みを返す。「ああ、世話をかけたな。旭もいろいろありがとう」 穏やかに微笑む聖は、愛しそうにさくらを見つめる。 泣きじゃくるその背中を、ただ優しく撫で続けていた。 聖が目を覚ましたことを聞きつけた誠一と智彦が、急いで病院へ駆けつける。 先に着いたのは誠一。 誠一は聖を見ると、ほっと胸をなでおろし微笑んだ。「よく、頑張ったな」 誠一に褒められたことなんてなかった聖は、頬を染めながら嬉しそうに微笑む。「心配かけてごめん、ありがとう」 聖が可愛い笑顔を向けると、誠一もはにかんだように笑った。 次に病室に飛び込んできたのは智彦だった。 智彦は聖を見るなり、さくらと同様いきなり聖を抱きしめてきた。「聖! よく耐えたな。 ……生きていてくれてありがとう。いろいろすまなかった!」 大の男